私が出会ったナッシュ

第74回のオスカーで作品賞含む主要4部門に輝いたロン・ハワード監督の『ビューティフル・マインド』。ご存じの通りこの作品は実話を元にしており、モデルとなった数学者ジョン・ナッシュは現在も生きていらっしゃいます。さて日本で劇場公開をしていた今年(2002年)の4月。とある方と話をしていたときのこと、その人が突然「『ビューティフル・マインド』って知ってる?」と聞くので、はいと答えると、なんとその人はジョン・ナッシュ本人にお会いしたことがあるというのだ。
ええええええええええ! この驚きわかっていただけますか? というわけで今回ご登場いただく「とある方」は私のごくごく近しい知人で、実はナッシュの唱えたゲーム理論における日本の草分け的存在である鈴木光男氏。一体ジョン・ナッシュとはどんな人物だったのかをお聞きしました。

−まずは映画の感想をきかせてください。
鈴木さん「楽しみにしていたので、公開されるとすぐ行って見ました。その後、細かいところを確かめたかったので、もう1回みました。懐かしい場面がいろいろあって、心にしみる思いでした。逆に専門家の意見としてはどうだったかも聞きたいですね(笑)。どうでした?」
−別に専門家ではないのですが(汗)。映画としてはちょっとがっかりですね。オスカーがすべてではないとはわかっていますが、これほどひどいのは久しぶりです、ハイ(大汗)。どこが『ビューティフル・マインド』なんだろうと。しっかり人間が描かれていないというか…
鈴木さん「私もナッシュのどこをビューティフル・マインドと見たのかがわからなくて残念でした。幻覚の部分も、カーチェイスから銃撃戦まで出てくるなんて余計ですよね(笑)。」

−ではまずナッシュとの出会いについてお話しいただけますか?
鈴木さん「私が初めてナッシュの姿をみたのは、1961年にプリンストンで開かれたゲーム理論のコンファレンスの時でした。当時私は1961年から1964年にかけてリサーチ・アソシエイトとしてプリンストン大学に留学していました。ナッシュが大勢の人の中でただ一人で黙って立っていた姿が印象に残っています。黙っているだけで、誰かと話しているのは見ませんでした。彼はおかしな発言をして自分が傷つくことを恐れていたのでしょう。その時、ナッシュは33歳で、がっしりした長身の知的な研究者という感じでした。」
−ラッセル・クロウは似てますか?
鈴木さん「年をとってからの外見はかなり似ていたと思いますが、若い頃はあまり似ていないですね。というかクロウよりずっとハンサムでしたよ(笑)。」※筆者注:原作本には若き日のナッシュの写真がある。かなりハンサムでクロウとはタイプが違います。

劇中のジョン・ナッシュ(ラッセル・クロウ)写真左と撮影現場を訪れた本物のジョン・ナッシュ。クロウにあまりインテリジェンスは感じない私としては微妙なキャスティングかも??
 
「碁は弱かった」&「ゴミ出し」は事実!

−映画の中で囲碁が出てきますが、ナッシュは囲碁をたしなんでいたのですか?
鈴木さん「彼が私に恥ずかしそうに碁をやりますかと聞いたので、やりますと答えたら、彼は自分の家から碁盤をもってきてやりました。でも彼の囲碁の力は全くの初心者のレベルでしたので、最初は対でやりましたがその後は何目か置いて貰ってやりました。プリンストンには、日本碁院から5段をもらった教授もいて、碁の強い人が多いので、ナッシュは相手にされなかったようです(笑)。それでも好きだったようですね。」
−それからペンを机の上におく場面が印象的でした。ああいうしきたりは実際にあるのですか?
鈴木さん「アメリカにはよくあることです。何かのお祝いに、上げることもありますし、お礼に世話になった人に上げることもあります。ただ映画では食堂で皆さんがナッシュにペンをあげていましたが、あの場面は、ノーベル賞の関係者が調査に来たときなので、あの時ではないと思います。あのあたりは2人のモデルの教授が1人の役になっています。余談ですがノーベル賞の関係者はそれでもナッシュの様子に確信が持てなかったらしく、彼と同時に2人の学者が受賞したのですが、それも当日ナッシュに何かハプニングがあったらどうしようという保険みたいなものだったのではというのが、もっぱら我々の中での話としてあったほどです。他の2人より優秀な学者は数多くいましたから。」
−他にナッシュについて何か印象に残る出来事があったら教えてください。
鈴木さん「私が留学してた頃のナッシュは、病状が小康状態のときにはゼミナールに出席していましたが、あるゼミナールでの彼の質問が簡潔かつ的を得たものであったのが印象に残っています。ナッシュはヨーロッパを放浪したり入院したりしていて、アメリカ国籍を棄ててフランスに行きたいというようなことを盛んに言っていた頃でした。街を歩いていて擦れ違ったときに、挨拶をすると返事が返ってくることもありましたが、異様な雰囲気で声をかけることもできないような時もありました。」
−プリンストンはどんな雰囲気だったのですか?
鈴木さん「大きな木がたくさんあって、街全体が大学のようなアカデミックな雰囲気の素敵な街です。街の様子がもっと出てきてほしかったですね。そうそうお、映画の中にナッシュがゴミ出しをしている様子がありましたが、朝ごみを出すのが彼の仕事で、近所では有名な話でした。」 

ゲーム理論について

−ナッシュのことは、いつごろ知ったのですか?
鈴木さん「ナッシュの名前を最初に知ったのは、1950年に彼の論文が発表された時です。その頃は外国の論文を手に入れることが困難な時期だったので、アメリカ進駐軍の図書館で彼の論文を発見しました。私と彼は同年齢なのですが、私が日本の大学院でせっせと地道に勉強していた頃、映画の中にあるように彼はすでにプリンストンで、その後に大きな影響を与える論文を書いていたわけです(笑)。この論文は実は非常に短くて、その雑誌でわずか2ページのものでしたが、手にしたときに経済学と直接結びつく可能性があるのではと強く印象に残りました。で、すぐさまノートに書き写したんです。」

これが実際に鈴木さんが書き写した貴重なノート。写真だと読みにくいが見開きで収まる程度の文章が、この後の数学、経済学に多大な影響を及ぼした。でも冷静に考えてみるとこれをすごいと思って発表当時に書き写している鈴木さんもすごすぎ。

−映画の中にも出てくるゲーム理論について簡単にお話いただけますか。
鈴木さん「ゲーム理論は独立した複数の存在がそれぞれ自分にとって最善と思われる行動をとったときに、どのようなことが起こるかというようなことを考える理論です。ゲームというのは相手がいて初めて成り立ちます。自分一人の場合には、最適な行動と思えても相手がいる状況では最適とはかぎりません。ナッシュはそのような状況で到達すると考えられる均衡状態を明らかにしたのです。その状況のもとでどう行動するのかを考えるのがゲーム理論です。映画では、ナッシュが教授に双曲線のような図を書いた論文を見せるところがありますが、あれは交渉問題という彼の最初の論文です。パンフレットをお持ちの方はパンフレットの解説を読んでください。」(筆者注:あの解説を書いている慶應大学教授中山幹夫氏は鈴木光男氏の教え子
−現代に置いて何がそれほど重要だったのですか?
鈴木さん「従来の経済学では、皆が最善を尽くせば社会全体がよくなるというきが基本的なイメージだったのですが、必ずしもそうとはかぎらないことを示
したので、それから社会科学の基礎として重要な意味を持つようになったのです。
−それほど彼の業績は素晴らしいものだったわけですね。
鈴木さん「ノーベル賞には数学部門がありません。また数学にはフィールズ賞という賞がありますが、ナッシュは選ばれていません。彼は相当悔しかったようです。彼のゲーム理論の論文は7つしかないので、経済学は彼の本職ではないかも知れませんが、経済学としてノーベル賞を貰うことができたのは良かったことだと思います。発表から45年たってからとはいえ、目に見える形で評価されたのは私にとっても喜ばしいことです。

事実と映画の違い、けれども…

−さてこの映画はオスカーを獲得したのですが、それにともういわばネガティブキャンペーンで彼の様々な別の側面が映画から抜け落ちているという批判がありました。反ユダヤ主義、両性愛者、夫人は本当はヒスパニック系であったのに白人女性がキャスティングされた…このあたりはいかがですか?
鈴木さん「原作は読まれましたか?」
−いいえ、読んでません。

オスカーをねらう映画の宿命ゆえか、事実と異なるとして様々な批判が噴出した。特に彼自身のマイナスイメージになりかねない事実(同性愛、反ユダヤ主義など)にふれられていないこと、またジェニファー・コネリーが演じたナッシュ夫人は実際はヒスパニック系にもかかわらず白人がキャスティングされたことなどがやり玉に挙げられた。

鈴木さん「私は原作も読みましたが、両性愛のことは原作でふれられています。私はそのことは原作を読むまで知りませんでした。それから反ユダヤ主義というのはなんともいえません。ゲーム理論家にはユダヤ系の方がたくさんおります。また、私の知る限り国粋主義的なところはなくて、むしろアメリカがキライでフランスで暮らしたいと言ったり、世界市民とか言っていました。奥さんの姿は拝見したことはありますが、どんな方だったかもう昔のことで覚えていません。でも意図的なネガティブキャンペーンで、反ユダヤ主義とか国粋主義とかいうのを取り上げること自体、品性がないというべきではないでしょうか。」
−最後にこの映画をみる(みた)人に何かひとこと。
鈴木さん「劇中で大学院生らしき若い人がナッシュに近づいて、自分の論文の話をし、ナッシュがそれに興味を示して議論を始めるシーンがあります。それを友人の教授が奥さんと一緒に見守って微笑んでいる姿をみせていました。あの映画の中で、私が唯一ほっとしたシーンです。天才とか言われる人はどこかしら普通の人とは違う、言い方をかえればあぶない部分があるんじゃないかと思います。だからこそ非凡な発想があったのでしょう。この映画から、病に負けずに、生きてゆく意志の強さを持ち続けることの尊さをを知ることができれば、この映画の意味はあると思います。」

インタビュー:じんけし 2002.08記
(文中:敬称略)

鈴木光男氏プロフィール
1928年生まれ。東北大学卒業。
東京工業大学教授、東京理科大学教授を歴任。
ゲーム理論の創始者モルゲンシュタインのもとで学ぶなど、海外の研究者とも
親交が深く、ゲーム理論誕生期からゲーム理論の研究をされている、
日本における草分け的存在。中でも著書『新ゲーム理論』は、ゲーム理論を全般に
わたって述べた本として研究を志す人々に広く読まれている。
なお鈴木光男氏は日本評論社の「経済セミナー」7月号にも
ジョン・ナッシュに関して寄稿されています。

参考文献
鈴木光男(1999)『ゲーム理論の世界』勁草書房

いよいよ9/13に国内盤DVDがリリース予定
(米国盤はすでにリリース済み)
収録時間:本編約136分
画面サイズ:画-LBX 1.85:1(16X9)
音声:英語5.1ch/日本語5.1ch
字幕:日本語/英語
収録特典予定
*音声解説(ロン・ハワード監督/脚本家アキバ・ゴールズマン)
*未公開シーン
*『ビューティフル・マインド』の裏舞台
*素晴らしいパートナーシップ/ロン・ハワードとブライアン・グレイザー
*脚本が完成するまで
*ジョン・ナッシュとの出会い
*アカデミー賞授賞式
*ジョン・ナッシュのノーベル賞授賞式などのドキュメンタリー映像。
*脚本の執筆過程や年老いるプロセス
*ストーリーボードと本編の比較
*特殊効果について
*作曲について
*劇場予告編

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